先代からの教えを胸に「1匹の命と向き合う」
朝日が海面を照らし始めた頃、駿河湾に面する静岡県焼津市・小川(こがわ)漁港で、前田さんは波止場で漁船の帰りを待っていた。
前田さんは「サスエ前田魚店」の5代目店主。開店の正午前には平日でも行列ができる人気店だ。休日になると県外からも食通が同店を目指してやってくる。
全国区の魚屋になったのは料理人からの評判が大きい。取引先にはミシュランの星付きシェフも多く、ピーク時は200軒以上と取引していたという。現在は80軒に絞り込み、その中には静岡の料理人たちも含まれる。海外の星つきレストランからの発注もある。
前田さんは、海との境界線を指差した。
「ここから先(の海)は漁師さんの場。私は漁師さんを信じて待ち、陸に上がった魚をいい状態でお客さんに渡すことが仕事なんです。400メートルリレーで言うと、1走が漁師、2走が魚屋、3走が飲食店で、4走のお客さまに届ける。バトンをどれだけスムーズにつなげられるかが大事なんです」
その思いは、大きなマダイであっても、小さな魚であっても変わらない。同じように大切に“命を扱う”ことは、先代の父から教え込まれた、前田さんの魚屋としての哲学だ。
「地魚」だからこそ、勝負する意味がある
先代までは、小売のほか、地元の飲食店や老人ホーム、病院などにお魚をおろしていた「サスエ前田魚店」。前田さんも幼少時代から家業を手伝い、20代の頃には同店で働き始めた。
「私はまだ魚の目利きもできていない鼻垂れ小僧でした。でも、当時の焼津で一番の割烹料理店の親方が、ずっと自分の魚を買ってくれていたんです」
魚の状態が悪くても、突き返すことはしない。土曜日の夜、なけなしの一万円を握りしめてお店に行くと、親方は前田青年のために“いつもの席”を用意してくれた。
「お客さんが『この料理うまいな』って言うと、『それは私の手柄じゃなくて、あそこにいる魚屋の若い衆の手柄です』と言って褒めてくれるんです。自分はイタズラ小僧で、褒められたことなんて一度もなかったから、本当に嬉しかった。人としての大事なことも教えてもらったし、駄目なところは叱ってくれた。第二の親父のような人でした」
親方のために、魚を覚えて恩返しがしたい。その一心で前田さんは魚の目利きや仕入れを覚えていった。ところが親方は病に倒れてしまう。「自分はもう復帰はできないから、次世代の料理人に全力投入してくれ」と託されたのが、天ぷら専門店「成生(なるせ)」の若き店主だった。
「成生を日本一に押し上げる」。夜な夜な、二人で魚の使い方を話し合い、志村さんがそれを調理した。徐々に全国の食通が「成生」を目指して焼津を訪れるようになった。
「最初はウニやカニなどの高級食材を遠方から取り寄せることもしていたんです。でも、2014年頃かな、お隣に座ったお客さんが『昨日も鳥取でカニ食べたんだよね……』と話していたのが聞こえてきて。全国を食べ歩いている人が来ているのだから、静岡産以外のものを出している場合じゃないな、とハッとしました」
同じ頃、前田さんは「成生の天ぷらでおいしさが一番わかりやすいのは野菜なのでは」と感じていた。にんじんやナスなど、普段食べているものほど、味の違いは鮮烈に伝わる。ならば、魚もイワシやアジ、小イカなどの“日常の魚”のほうが勝負のしがいがあるのではないか──。
または、流通に乗らず、地元でしか食べられていない魚たち。それらは本来なら個性豊かな“宝”のはずなのに、扱いが難しい、知られていない、値段がつかないという理由で市場から見過ごされてきた。前田さんは、そうした“地魚”に改めて光を当てたいと考えるようになった。
「『地魚って、こんなにすごいんだよ』ってことをちゃんと届けたい。それは料理人やお客さんにだけじゃなく、地元の漁師たちにもです」
魚屋が漁師に直談判。「魚の価値」は扱いで変わる
魚の魅力を伝えるには、“仕立て”が鍵になる──前田さんはそう考えている。漁師の手でどんな状態で水揚げされ、どんな扱いで魚屋に届くのか。それ次第で魚の価値は大きく変わる。
「いい魚をつくるためには、漁師さんとタッグを組むことが肝心。だから当初、漁師さんのお家に一軒一軒伺い、お願いをして回りました」
お願いした内容は「アジやイワシ、小さいサイズのイカや地魚でも、生きている状態で持ってきてほしい」ということだ。当然、「何を言っているんだ」と反発があった。生きたまま水槽に入れて港まで持ってくるのは、大きいサイズの甘鯛など高級魚だけというのが常識だったからだ。
「でも、生きてさえいれば、自分が陸でできること、つまり仕立てにも幅が生まれるんです。レストランが何時頃、どういう調理で使うかによって仕立てを変えられる。ちなみにこのイカは、左が生きていて、右が神経抜きをした状態です。成生で今晩、このイカが使われることになるでしょう」

画像左のように茶色がかった生きたイカの神経抜きをすると、一瞬で画像右のように白色がかった半透明に変化する
血抜きや神経締め、保冷の方法、脱水──。一手間かけるだけで、魚の持ち味は驚くほど引き出される。だから、漁師にはポテンシャルを引き出せる状態で陸まで持ってきてほしい。一時は漁師からも地元の同業者からも賛同を得られず、絶望したこともあった。
「すべて投げ捨てたくなる気持ちを押し留められたのは、親方との約束があったから」と前田さんは振り返る。約10年に渡り粘り強く説得を続け、漁師たちにも実際に料理を食べ比べて、その違いを分かってもらった。今では、漁師たちが、自分の水揚げした魚の状態をチェックしに競り後の前田さんの元にきて、海の状況などの情報を交換する。
「魚って、やっぱり人の手で仕立てられるものなんですよ。天然か養殖かじゃなくて、扱い方で全然変わる。大衆魚のイワシでお客さんを驚かせることができる。そしてそれは、ここ焼津でないと食べられない唯一無二のものなんです」
養殖魚は絶対必要、それでも「天然魚」と向き合う理由
「天然の魚がいい」と言えば聞こえはいいが、実際には天然魚の安定供給は年々難しくなっている。漁獲量の減少、気候変動、漁師の高齢化──前田さんはそうした現実に直面しながらも、あえて天然魚にこだわる理由を語る。
「養殖を否定する気はまったくないです。ここまで魚が減り、海が“痩せて”いっている以上、むしろ日本の水産業の未来には絶対必要。供給も安定しますしね。天然(の漁)は逆に、魚も安定して獲れるわけではないですし、漁師の数も減っていて、とても不安定なのです。でも、駿河湾は魚の種類も多く、国内有数の豊かな漁場。だからこそ、私たちはここで天然魚に向き合いたいし、向き合うべき。ここ駿河湾の魚屋が天然魚をあきらめたら、終わりだと思っています」
とはいえ、生態系の変化は20年ほど前から如実に感じるようになったという。かつては大量に揚がっていたサバが獲れない。名産だったタコもいなくなった。
「今の『おいしい』を次の世代まで残すための取り組みを、すぐに始めなくてはならない段階にきているんです」
そこで前田さんは、成魚になっていない魚は海に戻すよう、漁師に頼んでいる。
「産卵前の魚をとってしまうと、魚の数は減る一方でしょう。漁師にも生活があるから、その代わり、傷ものの魚も全部買い取るからと」
“海が痩せてきている”ことも感じている。プランクトンが少なく、それを食べる甲殻類や小魚も減り、これらを餌にする大きな魚もいなくなる。食物連鎖が崩れているのだ。そこで自治体や林業に携わる方たちと連携し、海に木を植える活動も始めている。木や葉が小魚やイカなどの隠れる場所になるという。

「サスエ前田魚店」の人気商品のひとつは、前田さん自らがつくる、にぎり寿司やばらちらし寿司(要予約)。相模湾の旬が味わえる。
今回は特別にリージョナルフィッシュが品種改良したヒラメ(写真右上)も握ってくださった。通常よりも短期間で大きくなるよう品種改良をしたヒラメを陸上で養殖した約2年ものだ。「届いた時に驚いたのはサイズ感。4〜5年ものかと思いました。養殖魚につきがちな独特な匂いもほとんど感じられないですね。相当すごいと思う」
今後起こりうる気候変動、津波などの自然災害への対策としても、陸上養殖の役割はあると話す。
「信念を持ったフロントランナーであり続ければ、いずれ陸上養殖の魚も“地魚”として認められる時代が来るでしょう。魚屋や料理人と連携して、ぜひ走り続けてほしい。養殖の技術が上がることは、海や天然の魚を守ることにもつながるでしょうから」
静岡の港町から、地魚の可能性を信じて挑み続ける前田さん。その姿は、未来の海の豊かさを信じる人たちに、確かな希望を届けている。

前田尚毅さんの考える、魚のおいしい未来
魚が増える未来、ですね。もちろん簡単なことじゃない。でも、かつてはできてたんです。人間の都合で海を壊して、魚が減ってる今だからこそ、自然とどう向き合うかが大事になる。
魚が増えても、それを扱う一次産業の担い手が減ってしまえば、私たちの食卓に魚が届かなくなる。だからこそ、漁師が続けられる環境を整えることが、魚のおいしい未来への第一歩でしょうね。
「やってられない」じゃなくて、「やっていける」って思えるような漁業にしないと。それが結果的に、みんなの魚への楽しみにもつながってくると思うんです。

前田尚毅
1974年、静岡県焼津市生まれ。水産高校卒業後、水産会社を経て、1995年に家業のサスエ前田魚店に入る。5代目になる15年前から、県外や海外のレストランに魚を卸すように。全国の人気レストランからのオファーが後をたたない。日本からだけでなく、フランスを初め世界50カ国以上の一流料理人が、魚の扱いを学びに焼津を訪れている。